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東洋大学が白山の哲学という異名で早慶中央と並んでたってマジ?

元スレ

1: 名無しなのに合格

三田の理財、早稲田の政治、駿河台の法科
中央は最近全体的に凋落気味だが社会的実績はかなり高いから納得いくけど東洋大はよくわからん


2: 名無しなのに合格

別に称されてはいない
ただの捏造


3: 名無しなのに合格

週刊ダイヤモンド 2016年 5/28 号 [雑誌] (慶應三田会 学閥の王者)

学閥
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E9%96%A5


4: 名無しなのに合格

10月4日、“女子アナの登竜門”とも称される「ミス慶應コンテスト」の中止と、同コンテストを企画・運営する公認学生団体
「広告学研究会」(以下「広研」)の解散が発表された。

慶應大学側は、「告示文」においてその理由を「未成年飲酒」によるものとだけ説明したが、小誌取材により、大学側が明かさなかった
「広研」の男子学生が引き起こした重大な事件が明らかになった。

事件が起きたのは9月2日、現場となったのは、神奈川県葉山町内にある広研の「合宿所」だった。事件の全貌を知る広研所属の学生が語る。

「この日は、広研が夏の間に運営している海の家の撤収を行う作業のため、6人の男子学生が合宿所に泊まっていました。
作業終了後、酒を飲むことになり、呼び出されたのが6人と顔見知りだった1年生のA子さんです」

そして深夜、男子学生たちは酒で意識のなくなったA子さんに襲いかかったのである。しかも、あろうことか、その様子を別の学生が撮影し、実況まで行っていたという。

男子学生の一人は小誌の直撃に対して最初は偽名を名乗ったが、「何も答えられないです」と言いながら、本人であることを認めた。
「謝罪の気持ちは本当に……。時が来たら連絡します」と言い残すのが精一杯だった。

一方でA子さんの母親は、小誌取材に対して、警察に被害届を提出したことを認めた。

上記事実の確認を慶應大学に求めたところ、「今回の解散命令の基礎になった事実は告示文に記載されているとおりです。
なお、今回の処分は、関係者に複数回にわたる事情聴取を行う等、大学として可能な限りの調査を行ったもので、適正なものと認識しております」との回答があった。

詳細は、10月13日発売の「週刊文春」10月20日号で報じている。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161011-00006659-sbunshun-soci


5: 名無しなのに合格

東洋工作員はもう結構


6: 名無しなのに合格

東洋大は人文系とか哲学が有名なのは知っている。坂口安吾とか出身。部活の先輩が東洋大哲学科行った。

ワイは理系やから研究レベルとかは知らん。


7: 名無しなのに合格

【抑えきれぬ】日東駒専捏造コレクション【学歴コンプ】
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/joke/1466666271/
東洋が叫ぶ「白山の哲学」は捏造じゃね?
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/joke/1448240658/
【捏造王東洋】誰が「白山の哲学」と言ったのか
http://tamae.2ch.net/test/read.cgi/kouri/1459247724/

>>1
「三田の理財、早稲田の政治、駿河台の法学、白山の哲学」は捏造です。

慶應義塾の理財科は大正9年に「経済学部」と名を改めた
http://www.keio.ac.jp/ja/about_keio/history/timeline.html
中央大学は大正15年まで神田錦町にあった
http://www.chuo-u.ac.jp/aboutus/history/history_01/
東洋大学は昭和3年まで専門学校だった
https://www.toyo.ac.jp/site/portrait/tokuzo-nakajima.html


8: 名無しなのに合格

>>1
【東洋工作員は捏造王】
東洋大学は早稲田大学よりも歴史が古いと主張
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1138534066
戦前は「三田の理財、早稲田の政治、駿河台の法学、白山の哲学」と称されたと主張(現在は「白山の哲学」のみが残る)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B4%8B%E5%A4%A7%E5%AD%A6
東洋大学の昇格が遅れたのは哲学館事件のせいと主張(現在は削除)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%B2%E5%AD%A6%E9%A4%A8%E4%BA%8B%E4%BB%B6
東洋大学は六大学野球に誘われたと主張
http://changi.2ch.net/test/read.cgi/jsaloon/1220602946/
東洋大学は東京12大学広報連絡協議会に誘われたと主張(現在は削除)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC12%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E5%BA%83%E5%A0%B1%E9%80%A3%E7%B5%A1%E5%8D%94%E8%AD%B0%E4%BC%9A
東洋大学剣道部は明治21年創部と主張(本当は大正元年)
http://www4.hp-ez.com/hp/toyokendo/page12
笠智衆は東洋大学印哲卒と主張(本当は中退)
http://www.s-osa.com/activity/135.html
受験産業界で「早慶上東」と呼ばれるだろうと主張
http://kanae.2ch.net/test/read.cgi/kouri/1414225349/95
東洋大学は河合塾偏差値で早慶に並んだと主張
http://tamae.2ch.net/test/read.cgi/athletics/1455964797/641


9: 名無しなのに合格

>>1
主要私立大学の学生数(昭和10年、専門部除く)

  早稲田 8174 (法、政経、商、文、理工)
  慶  應 6759 (法、経済、文、医)
  日  本 3947 (法文、商経、工)
  明  治 3345 (法、商、政経)
  中  央 2643 (法、経済、商)
  法  政 2540 (法文、経済)
  立  教 1415 (経済、文)
  同志社 1346 (法、文)
  関  西 1371 (法、商)
  専  修 1284 (法、経済)
  立命館  937 (法経)
  関  学  840 (法文、商経)
  拓  殖  688 (商)
  國學院  566 (文)
  駒  澤  410 (文)
  ---------------------------------------------
  東  洋  226 (文) ← 自称「早慶と同格」wwwwwww


10: 名無しなのに合格

日 東 駒 專 どこも同じレベル

頭の中 就職先 スポーツ 容姿 すべて青学に離されていくね

段々先が見えないよ 青学が見えないよ

4校は貧乏人の学校?


11: 名無しなのに合格

 >>1
 こんなデータもある。
┌─────────────┬──────────┬───┬────┐
│学校名                    │.昭和6年度入学志願者 │入学者│競争倍率│
├─────────────┼──────────┼───┼────┤
│法政大学高等師範科(夜間部)│        587人    │ 186人.│  3.16倍 │
│國學院大学高等師範科      │        482人    │ 175人.│  2.75倍 │
│東洋大学専門部(昼間部)    │        492人    │ 311人.│  1.58倍 │
│.    〃     (夜間部)    │        141人    │ 097人.│  1.45倍 │
└─────────────┴──────────┴───┴────┘
 (『明治大学文学部50年史』 26ページ、都下私立専門学校文科生徒数(専門部)から抜粋)

 やはり昔から法政・國學院>東洋だったんだね。


12: 名無しなのに合格

・戦前の東洋大学の住所は「東京市小石川区原町字鶏声ヶ窪十七番地」
・白山校舎は「原町校舎」と呼ばれていた
・原町が現在の白山3~5丁目になったのは昭和41年である

  『東京朝日新聞』 昭和3年4月3日付夕刊
  「中島徳蔵氏の学長である小石川区原町なる東洋大学は予て文部省に対し
  大学令による認可申請中の所右設立の件二日認可の旨告示で発表された、
  開設期は大学予科は本年四月、大学部は明年四月からである」

  『東洋大学創立五十年史』 昭和12年
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1712060
  「原町校舎は、小石川区原町字鶏声ヶ窪六、七、八、十七、十八、十九番地に跨る
  約三千八百五十坪の地中、高地たる十七番地に建設されたるものである」

  『角川日本地名大辞典 13 東京都』 昭和53年
  はらまち 原町〈文京区〉
  [近世~近代]江戸期~昭和41年の町名。明治44年までは小石川を冠称。
  (中略)昭和22年文京区に所属。同41年現行の白山3~5丁目となる。


13: 名無しなのに合格

【明治期】
明治37年以降の電車の開通までは、交通機関として板橋から万世橋まで往復の乗合馬車があったが、
馬車は哲学館前に来ると、「鶏声ヶ窪哲学館前」と乗降客に連呼して知らせたという。
(『東洋大学百年史 通史編Ⅰ』 279ページ)

【大正期】
大正3、4年頃、曙町停留所を東洋大学前とする学生の働きかけがあったが、
千人以上の学生がいなければと市から断られたという(『東洋大学と学祖井上先生』 33頁)。
当時はまだ170~180名程度の学生数にすぎなかった。
(『東洋大学百年史 通史編Ⅰ』 966ページ)

【昭和初期】
東京市電気局の「電車線路及停留場一覧図」(昭和4年)によれば、
                                                             文

水道橋-壱岐坂下-春日町-餌差町-小石川柳町-八千代町-指ヶ谷町-白山上-曙町-小石川原町-駕篭町-西丸町-巣鴨橋…

となっており、東洋大学を示す「文」のマークは白山上ではなく曙町の横に描かれている。


14: 名無しなのに合格

【昭和20年代】
『蛍雪時代臨時増刊 全国大学内容案内』 旺文社、昭和29年 301ページ

東洋大学

学長 加藤精神
設置 昭和24、2、21
所在地 東京都文京区原町17 (電)大塚2721、3212、国電巣鴨または水道橋駅より
       都電にて5分曙町下車、国電御茶ノ水駅よりバス10分、国電駒込駅より都電7分

概観

本学は学祖故井上円了博士が「護国愛理」の精神にもとづいて本郷湯島に
哲学館を設立したのにはじまる。明治39年には東洋大学と改称、以来哲学を根基として
東西の学問文化を融合し、普遍妥当にして民族の個性豊かな新文化を創造し、
その神髄を昂揚し来ったのである。また創立以来60余年の伝統を有する本学は、
宗教界・教育界・出版界・新聞界に1万数千の卒業生を送り、それぞれ活躍している。

終戦後は、学園の大拡張を企図し、文学部のほかに経済学部を設置し、
更に昼間就学できない勤労学徒のために、学問の解放、勉学の機会均等を
期して夜間の短期大学、4年制の文学部二部・法経学部などを設置した。
27年には大学院修士課程を置き、29年にはその一部を改組するとともに、
博士課程を新設し真に学問研究の府たらしめんとしている。

※「白山の哲学」は出てきません。


15: 名無しなのに合格

 
                                    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
                                    ,′ 「哲学館創立以来十有六年、忠孝以本、国体為先の教育を施し、
                                     │  哲学館は勅語学校である忠孝学校であるとまでに自らもいひ
                               > ― ┤  世間よりも評せられたるにも拘らず、今回の御沙汰ありしは、
                              / /zzzz|..  残念至極と申すより外はない」(井上円了)
『哲学館事件と倫理問題』 覆刻版 1989年    / //ニ≠=ミ!.
.http://ci.nii.ac.jp/ncid/BN03409548       ;’/;'77///-ミi、 井上も世間も「白山の哲学」とは言いませんでした。
                               ;’;i:zミ〈//z=ミ|l.\__
                            ; ハ}(ゞ'r‐、 ゞィ刈 ./.ノ>-x___ _____________________
.           \               ;.j/|:{ ̄′_ ̄´;’ //〉:′|∧ /ノ
.            \               i.|l |∧ .し′./ .///|ノ ./ ./
                \               lj.| |i |lヽ......< .///. |//〉
                 \           .|!.| |l从トィ}!/ /イ/.{='¨〈::::::\
                  \ ト、_      __メト:リイ .l/才/.´‘,..∧.―┘
.                    〈 ̄.ヽ`Y /´./¨/ 乂{//}./     ∨li∧
.                   {     乂}、._ゝイ¨7ノノ}. /; / >‐.、.Ⅶl∧
.                    乂__, l| .∨/:./|⌒ /.:.〈/イ   .j从| ∧
                     ||ヽlj .乂/.:.|:/}  /ノ   j./l::|:l| |l li
                     ||:::/    .\¨ く{≠ ´    ///l::|:l| |l ||


16: 名無しなのに合格

東洋大学というのは、創設者が妖怪学を研究していた井上円了が創設した学校ということで
長いあいだ、どこか色眼鏡で見られてきたのだ

要するに、微妙な研究をしていた人が作った学校だから少し甘く見られていた

そのせいで、学校の評判はあまり高くなかった

そして、いまもそれは途切れることなく続いている


17: 名無しなのに合格

もー東洋はええやん


18: 名無しなのに合格

東洋大学校歌には「白山」が出てこない。

 校歌は自校の存在をアピールする手段の一つとして、
 特に大正期から昭和初期にかけて多くの大学や旧制高校で作られた。
 歌詞の中に学校の所在地やその風土の特色を表現したり、
 校風や理念を示す言葉を採り入れたりしたのは当然のことと言えよう。
 (『専修大学育友会会報「育友」113号』)

早稲田大学校歌
 「都の西北 早稲田の森に」
.            ̄ ̄ ̄
慶應義塾大学塾歌
 「起て 日はめぐる丘の上」 ※三田キャンパスは丘(三田台)の上にある
                ̄ ̄ ̄
明治大学校歌
 「白雲なびく 駿河台」
.            ̄ ̄ ̄
立教大学校歌
 「紫匂へる 武蔵野原に」
           ̄ ̄ ̄ ̄
法政大学校歌
 「蛍集めむ 門の外濠」
.            ̄ ̄ ̄ ̄
立命館大学校歌
 「鴨の流れの かがみもたふとし」 ※旧広小路学舎は鴨川のそばにあった
.   ̄ ̄ ̄ ̄
関西学院大学校歌
 「いざ いざ いざ 上ヶ原ふるえ」
             ̄ ̄ ̄
國學院大學校歌
 「渋谷の岡に 大学たてり」
.   ̄ ̄ ̄ ̄
明治学院大学校歌
 「白金の丘に 根深く」
.   ̄ ̄ ̄ ̄
順天堂大学校歌
 「光に映ゆる 湯島の台地」
.          ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
専修大学校歌
 「宮城の北 枢地に立ちて」
.   ̄ ̄ ̄ ̄
駒澤大学校歌
 「晴れたり この空 この我が駒澤」
                       ̄ ̄
獨協大学校歌
 「関東は草加のほとり」
.         ̄ ̄
東海大学校歌
 「代々木の台に そびえたつ」
.   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
立正大学校歌
 「意気高し 谷山ヶ丘の 立正ぞ」
.          ̄ ̄ ̄ ̄
-----------------------------------

東洋大学校歌
 大学周辺の地名は一切出てこない。
 やはり「白山の哲学」は捏造なのだろう。


19: 名無しなのに合格

>>1
これ読んでみ。

天野郁夫 『高等教育の時代 上』 中央公論新社、2013年
http://www.chuko.co.jp/zenshu/2013/03/004488.html

  大学令と昇格
  大正7(1918)年末の大学令公布によって、わが国の高等教育システムに生じた
  最大の変化は、帝国大学以外の官公私立大学、とりわけ私立大学の出現である。

  先にふれたように、それ以前にも私立専門学校の中には「大学」の名称を認められた
  専門学校、すなわち括弧つきの「私立大学」が存在したが、法規上はあくまでも
  「専門学校」であり、正規の大学として認められていたわけではなかった。(47ページ)

  私立大学への道
  私立専門学校のうち、大正7年の時点で「大学」名称を認められていた学校は、
  全体で25校であった。これら25校の「私立大学」は大正9年以降、順次、正規の大学へと
  「昇格」していくのだが、そのうちの最後の2校、東洋大学と上智大学が昇格を果たしたのは、
  昭和3(1928)年のことである。大正7年の大学令公布から数えて10年かかったことになる。(48ページ)

※東洋大学は最も遅れた私立大学のひとつである。

  私立大学への昇格にあたっての最大の困難は、いうまでもなく資金にあった。
  十分な資金さえあれば、施設設備の整備も、専任の教員の確保も不可能ではない。
  しかしわが国の私立専門学校の中で、はじめから安定的な基金や資産をもって
  創設され、発展を遂げ、大学への昇格を果たしたものは皆無に等しかった。(49ページ)

※東洋大学の昇格が遅れたのは資金不足だったから。


20: 名無しなのに合格

>>1
  人的資源と組織
  何よりも、念願の大学昇格が現実の問題となった大正中期には、
  明治10年代に高等教育機関として発足した私立専門学校の多くが、
  創設から40年近くの年月をへて、創設者・創業者の時代の
  終わりを迎えようとしていた。

  私立学校創設者の多くが、啓蒙期に特有の高い理念を持ち革新の意気に
  燃えていたことは、多くの校史が強調している通りである。しかし、明治という
  時代とともにそうした創業者の時代は終わり、世代交代のときが訪れつつあった。
  「創業者から経営者へ」の移行の時期がはじまっていたのである。

  大学経営の担い手となり、中核となる次の世代が育っているのか。
  永続的な組織体としての人的な基盤は、どこまで整備されているのか。
  財政的な基盤だけでなく、そうした人的な資源の側面でも「私立大学」は
  大きな困難に直面していた。事務局の組織すら未整備で、大福帳的な
  経営を続ける学校もあれば、専任の教員集団を持たない学校もあり、
  夜間授業中心の学生集団は流動的で、同窓会組織が未整備なままの
  学校も少なくなかった。昇格を果たすまでに要した時間の違いは、
  そうした財政的・物的な側面と同時に、人的・組織的な側面での
  学校間の格差とも深くかかわっていた。(51-52ページ)

※東洋大学の学祖・井上円了は大正8年に死去、その後継者たちは醜い内紛を繰り広げた。


21: 名無しなのに合格

>>1
  最初に昇格を果たした慶應義塾と早稲田の2校は、福沢諭吉と大隈重信という
  カリスマ的な創設者と、大学運営の中核となる有能な人材を持ち、支援者の層も厚く、
  早くから多数の有力な卒業者を、しかも社会のさまざまな分野に送り出してきた。
  建物・土地等の資産の蓄積も、事務局等の組織の整備も、専任の教員集団の形成も、
  ほかの私立大学に比べて格段に進んでいた。何よりもこの時期、慶應では鎌田栄吉、
  早稲田では高田早苗のように学園の経営に専念する強力な中核的リーダーが存在し、
  それを支える教員集団、事務局体制、それに校友や同窓生が厚い層を
  形成していたことが大きい。(52-53ページ)

※東洋大学にはカリスマ経営者も専任教員集団もなく、学生や校友会もまとまりを欠いていた。

  これに対して同じ大正9年でも、学年初めの4月になって認可された6校
  [明治・法政・中央・日大・國學院・同志社]は、それぞれに問題を抱えていた。

  最大の問題はいうまでもなく資金不足にあった。設置認可を受けるためには、
  各大学とも最低で50万円の基本財産(1学部を増すごとにさらに10万円追加)の
  供託を求められただけでなく、教員集団を非常勤中心から専任中心へと転換をはかり、
  授業を夜間から昼間に切り替え、高等学校と同水準の施設と専任教員を備えた
  大学予科を設置し、また洋書をふくむ一定冊数以上の蔵書を持つ図書館等、
  施設設備の整備を進めなければならなかった。供託金や校舎・図書館の建設のための
  資金集めに、そしてはじめて持つことになった専任教員集団の人件費の支払いに
  いかに困窮したかは、多くの校史がふれているところである。(54ページ)

※東洋大学はオンボロ校舎で、図書館の蔵書も少なく、バイトの教員だらけの貧乏学校だった。


22: 名無しなのに合格

哲学館事件 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%93%B2%E5%AD%A6%E9%A4%A8%E4%BA%8B%E4%BB%B6&oldid=52915556
>この後、哲学館は東洋大学となり、1928年(昭和3年)に大学令(1919年(大正8年)施行)による
>大学となるが、申請をしたにもかかわらず他の大学に比べて認可が遅れた(慶應義塾大学、
>早稲田大学、國學院大學などは1920年(大正9年)に認可)のは哲学館事件が
>尾を引いたからではないかと当時の新聞は論説を書いている。また、公文書の開示結果、
>1920年(大正9年)に既に認可できる要件は整っていたが、この事件が影響して認可できないという
>内容が残されていることが判り、東洋大学が遅れた存在ではなかったことが証明された。

※1920年(大正9年)に認可できる要件は整っていませんでした!


困難だった大学令による東洋大学への昇格を果たす|東洋大学
https://www.toyo.ac.jp/site/portrait/tokuzo-nakajima.html

明治中期、哲学館などすべての「私立学校」は法令上は専門学校とされていなかった。
1903(明治36)年に専門学校令が発布され、「大学」を名乗ることが認められたのである。
その後、文部省は1918(大正7)年に大学令を公布して、国公私立を問わず大学を認可するが、
私立大学には多額の供託金などを義務づけた。

哲学館ではこの大学令を受けて、第1次昇格運動を行ったが失敗している。
そして1926(大正15)年に学長となった中島が、第2次昇格運動に取り組んだ。
東洋大学では、初年度に25万円を集め、翌年には9万円、翌翌年には8万円、4年目にも
8万円の寄付を集めるという計画であった。こうして中島らの努力により最初の25万円を寄託し、
1928(昭和3)年に大学令による東洋大学へと昇格することができたのである。


23: 名無しなのに合格

東洋大学設立に関する通牒(昭和3年5月1日)

  辰学第五三七号
                   東京府知事[印]
  東洋大学設立者殿
      東洋大学設立ニ関スル件

  本年一月二十日付ヲ以テ申請相成候標記ノ件ニ関シテハ
  左記条件ヲ履行スルモノトシテ認可相成リタル趣キニ付
  篤ト御承知相成度此段及通牒候也

                記

  一、基本財産分割供託及校舎建築設備図書購入等
     既定計画ヲ違[遺]漏ナク遂行スルコト

  『認可書等綴 大学 自明治四十年四月至昭和五十年三月』 東洋大学企画室所蔵

※供託金の納付、新校舎建設、図書購入などの高いハードルをクリアする必要がありました!


24: 名無しなのに合格

天野郁夫 『高等教育の時代 上』 中央公論新社、2013年
http://www.chuko.co.jp/zenshu/2013/03/004488.html

東洋大学と紛擾事件

仏教系ではないが、仏教教育と関係の深い東洋大学の昇格についても、ここでふれておこう
(ちなみに、同大学の大正6年時点での全卒業者中、寺院住職が最も多く、全体の45%を占めていた)
〈『東洋大学創立五十年史』151-152ページ〉。

井上円了によって創設された東洋大学は、明治20年、哲学館としての発足の頃から、
「日本主義の大学」設立の構想を持っていたことが知られている。

それは井上が描いた壮大な夢にすぎなかったが、明治36年に専門学校令による哲学館大学になり、
大学令公布後の大正8年初めには、国学科・漢学科・仏学科の3科からなる文学部を置く大学設立構想を
打ち出し、総額250万円のほか、「1講座基本金を金5万円とし、金5万円の寄附者に対しては記念の方法として
其の寄附者の名を以て講座名となすこと」を条件に、まず25講座、125万円を募り、「資金の充実を俟ちて
漸次講座数を増加」するという、ユニークな構想であった。さしずめ、人名つきの寄附講座ということになろうか
(同書、164ページ)

しかし、同年8月には創設者で名誉学長の井上が死去したこともあり、
5万円の「寄附講座」は論外として、供託金を含めて昇格に要する60万円の募金自体、
大正12年の時点で申込金額12万円、払込額は3万円弱にすぎなかった。

それだけでなく、同じ年に井上から前田慧雲・大内青巒という著名な仏教学者を経て、
大正7年に第4代の学長に就任した、哲学館出身の境野哲学長の大学運営をめぐって、
教授・学生・校友等を巻き込む「紛擾事件」が起こり、学長擁護派と反対派が激しく
対立するに至った。岡田良平・井上哲次郎・高楠順次郎らの顧問陣が調停を試みたが、
翌12年には、教授会が学長不信任を決議、文部省が境野学長の認可を取り消すなど、
大学昇格どころではなくなってしまったのである(同書、168-174ページ)。

事態収拾に中心的な役割を果たした岡田が、後任の学長に就任し、ようやく学校運営が
軌道に乗ったものの、その岡田は13年には文部大臣に就任して学長を辞職している。
昇格への努力が再開されたのは、岡田のあと学長事務取扱を務めてきた同校教授の中島徳蔵が、
正式に学長に選任された昭和2年以降のことであった。中島は自ら昇格部長に就任して、
60万円の昇格資金獲得に着手し、「本学関係者ハ勿論広ク江湖ノ同情」に訴えた。

校史によれば、「既に昇格は必然の帰結なりとして先づ本学教授は之に賛し、教授会に於て
年額1万円を5ヶ年に亙り寄附すべく決議し、学生亦学生大会を開催し、1人年額16円50銭宛
5ヶ年の寄附を可決し、校友に於ては校友会に委員会を設け、全国校友に積極的に呼掛くる等、
機運は益々良好に進展」をし、最終的には有力校友や企業の援助で40万円の調達に成功した
(同書、181-183ページ)。設立の認可は昭和3年3月であった。


25: 名無しなのに合格

東洋大学は昭和3年第1回の供託金25万円の供託をおこなった。そして2回目以降は毎年度それぞれ
9万円・8万円・8万円ずつを供託し昭和6年度で50万円の供託を完了する予定であった。しかしこれを
実行することはできなかった。そのため大学は昭和6年7月23日、基本財産供託金の分納期の変更願を
文部大臣宛に提出し、同年9月17日その認可を得た。これにより残り25万円の分納は昭和6年度から
同10年度までは毎年1万円ずつ、昭和11年度から同15年度までは同じく4万円ずつを供託することに
変更され(『資料編 Ⅰ上』 332頁)、昭和6年度以降10ヵ年にわたる分納が認められた。東洋大学は
最初の昭和6年度は申請どおりの1万円を供託することができた。(『東洋大学百年史 通史編Ⅰ』 1037ページ)

しかし、これ以後再び大学は文部省に供託金を提供することができなくなり、昭和9年度には
文部省からこの供託金を下戻を受けることになった。下戻を受けたのは、文部省に供託してある
公債のうちの第2回帝国4分利公債額面5万円であった。(中略)したがって文部省に供託している
有価証券の額面は26万円から21万円へとかわった。昭和9年7月、大学は再び残り29万円の
供託金分納期の変更願を文部大臣宛に提出した。この変更願は昭和9年12月13日付で認可を受け、
次に示す方法に変更されることになった。

  自昭和7年度至昭和9年度   猶予
  自昭和10年度至昭和14年度 毎年度1万円
  自昭和15年度至昭和20年度 毎年度4万円  (『資料編 Ⅰ上』 332頁)

これで昭和7年度から同9年度までは供託猶予とし、かつ最終供託期を昭和20年度までとする
長期にわたる分納が認められた。しかしこれも大学は履行することができず、昭和17年になって
ようやく5000円を供託することになる。(『東洋大学百年史 通史編Ⅰ』 1038ページ)

供託金問題に関しては東洋大学の場合、結局全供託金額の半分にも満たない状態のまま戦後を迎えたのである。
(『東洋大学百年史 通史編Ⅰ』 1135ページ)


26: 名無しなのに合格

OBから一言
いつまでも哲学の東洋と言うと大笑いにされるぞ

もう少し勉強しろ


27: 名無しなのに合格

日本哲学会歴代会長(委員長)に東洋大学OBはいない
http://philosophy-japan.org/ja/history

天野貞祐  (京都帝大卒)
務台理作  (京都帝大卒)
伊藤吉之助(東京帝大卒)
出隆      (東京帝大卒)
桂寿一    (東京帝大卒)
三宅剛一  (京都帝大卒)
松本正夫  (慶應大卒)
下村寅太郎(京都帝大卒)
山崎正一  (東京帝大卒)
岩崎武雄  (東京帝大卒)
沢田允茂  (慶應大卒)
山本信    (東京帝大卒)
藤沢令夫  (京都大卒)
渡辺二郎  (東京大卒)
坂部恵    (東京大卒)
加藤尚武  (東京大卒)
野家啓一  (東北大卒)
高山守    (東京大卒)
飯田隆    (東京大卒)
加藤泰史  (静岡大卒)


28: 名無しなのに合格

【昔の白山は風俗街だった】
http://www.takken-bunkyo.jp/omoidenomachi/omoidenomachi08.html
http://blogs.yahoo.co.jp/aromanonnon/39308025.html
http://hi-hyou.com/archives/250
http://www.shurakumachinami.natsu.gs/04rensai-page/yuriwoaruku/yuri_tokyo_johoku.htm
http://www1.tcn-catv.ne.jp/hatake113/s_hakusan/hakusan.html
http://www.kyoshu-komichi.com/hakusan.html

『三都花街めぐり』(松川二郎著、昭和7年)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1458091
『白山繁昌記:白山花街廿周年きねん』(白山三業、昭和7年)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1459064


29: 名無しなのに合格

>>28
東洋大学と場所は近いけど
高台の上と風俗が下で 全く環境が違う


30: 名無しなのに合格

高嶋米峰自叙伝 (学風書院)|1950年
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001314423-00

  米峰翁を偲んで 大谷光照

  小学校時代島地大等先生の許にあった私は、先生と関係の深かった翁のことを
  しばしば耳にした。殊に白山上に近い原町の東洋大学の傍に住んでおられた
  翁のお家は目と鼻の先に見え、学校の往復にも翁のお家の前を通った。(116-117ページ)
             . .
「白山上に近い原町の東洋大学」。「白山の東洋大学」ではない。




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